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せともの祭、ありがとうございました。


せともの祭の会場となる国道248号線。開催中は通行規制がかかります。

例年ですと、町の真ん中を流れる瀬戸川の両岸にテントが立ち並びます。

 Webせともの祭陶器市が終了しました。ご注文を下さいましたお客様、誠に有難うございました。地元の愛知県のお客様はもとより、他県にお住まいのお客様からもご注文を頂きました。このお祭りは、全国のお客様からご関心を頂いていると再確認させて頂いた次第です。有難うございました。

 

 本来であれば今年で第90回目となる歴史あるせともの祭。2年連続でリアル開催が中止になりました。本年も実行委員会は6月の早い時点で中止を決断されました。例年ですと、出店者のテントや屋台がひしめき合い、凄い人出になります。1日目の夜には花火も上がり、愛知県屈指の盛大なお祭りでしょう。来年こそは本来のお祭りが開催できることを切に願っております。

 

 せともの祭が開催されていない瀬戸市がどんな状況なのか、Web開催中の11日(土)に視察に行って来ましたので、この機会に写真を交えて陶都・瀬戸市を紹介させて頂きます。


窯神神社から見た瀬戸の中心地。  2021.9.11

 藤山窯から南西に20km走った位置にある愛知県瀬戸市。美濃とは隣接する地域であり、古代から今日まで作られて来た瀬戸焼も、美濃焼と同じような変遷をたどっております。

 

 瀬戸焼は、中世から現在まで続く代表的な焼き物の産地とされる六古窯(瀬戸、常滑、信楽、越前、備前、丹波)の一つに数えられます。平安時代~室町時代に、日本で唯一施釉陶器(釉薬をかけて焼いた焼き物)を焼いた産地でもあります。「古瀬戸」と言われるものです。そして江戸時代後期から、磁器の製造にも着手・成功し、東日本の人々の間では「せともの」という言葉が陶磁器の代名詞に使われるほどの一大産地になりました。ところで、西日本ではせとものではなく、「にしのもの」と言っていたらしいのですが、せとものが陶磁器全般を指すという常識は本当に通用しないのでしょうか?

 少し話が反れますが、美濃焼を代表する焼き物の中に、瀬戸の地名が入った「黄瀬戸」と「瀬戸黒」があります。諸説ありますが、これは織田信長の時代、信長が尾張(小牧城)から美濃(岐阜城)へ国替えした際に、瀬戸の陶工を美濃へ移住させました。美濃の地において、このような瀬戸系の陶工によって焼かれた焼き物であったことから、名前に瀬戸の地名が当てられたと考えられております。

黄瀬戸

瀬戸黒


 今現在、瀬戸では多種多様の陶磁器が生産されていますが、その発展に貢献した偉大な人物が二人いらっしゃいます。陶祖(陶器の祖)の加藤四郎左衛門景正(通称は藤四郎さん)と、磁祖(磁器の祖)の加藤民吉翁です。その二人が、それぞれ市内の神社に祀られております。

藤四郎が祀られる陶彦社

民吉が祀られる窯神神社


 鎌倉時代、藤四郎は道元(曹洞宗の開祖)のお供として宋へ渡り、陶器の製法を学び、帰国後に瀬戸で開窯したと伝えられております。

 古来より有名な焼き物産地ではあったものの、豊臣秀吉の時代に九州の有田で磁器が生産されるようになると、瀬戸焼は有田の勢いに押され、衰退の一途をたどるようになりました。この窮状を救うべく、民吉が立ち上がりました。磁器製法を習得するために単身で有田に渡り、3年間の修業の後に瀬戸の地に磁器を伝えました。この民吉の功績を称えるお祭りが、毎年9月第2土日に開催されるせともの祭なのです。

加藤民吉出生の地

窯神神社にある加藤民吉の銅像


 昭和7年(1932年)から始まったせともの祭。当時は、世界恐慌の真っ只中。不況にあえいでいた瀬戸の窮状を救うための在庫整理が目的で始まったようです。藤山の当主は昭和25年生まれです。当主が生まれる18年も前から続いています。

 

 近年は瀬戸川両岸800mに約200軒の出店という規模のお祭りですが、昔はもっともっと大規模なお祭りでした。基本的には瀬戸市内の陶器商店のためのお祭りですので、瀬戸市に住民票がある者しか出店できません。しかし、藤山は瀬戸市に親類がいるものですから、美濃の者でありながらも昔から出店させて頂いております。とは言え、我々はあくまでもよそ者です。出店場所はくじ引きで決まるとは言え、当然ながらメイン会場近辺の一等地は地元の問屋さんと窯元さんのお店が所狭しと並んでおります。当主は、子供の頃から家族の一大イベントであったらしく、今でも「せともの祭になると血が騒ぐ」と、言っております。気合が入るようです。

 今から20年ほど前の出店当初は、お買い上げ頂いた器を包むのに忙しくて、「昼ごはんを食べる暇がなかった」と当主たちは言っております。この頃はまだ陶磁器の需要が多かったようです。筆者も学生時代に販売を手伝ったのですが、藤山のテントの前で足を止めて下さり、カート一杯に器を買って下さったお客さんがいらっしゃいました。「もしかして家ってすごいものを作っているの?」なんて思わせて頂いたのも、このせともの祭でした。一生忘れられません。あれから20年ほどが経過し、その中で景気が後退し、人口が減少し、陶磁器の需要も減少して出店者が減り、お祭りの規模を縮小する結果となったようです。寂しいですが、時代の流れなのでしょうね。

お祭り会場の最も東にかかる橋。

橋の向こうは、招き猫ミュージアムです。

最盛期は、奥に見える歩道橋の辺りまでも、テントが軒を連ねていたとか。


以下、お祭り会場近辺を簡単にご紹介いたします。

 名鉄瀬戸線の、尾張瀬戸駅。通称は「瀬戸電」です。乗り換えなしで、名古屋市の中心地栄町と30分ほどで繋がっているすごい路線です。瀬戸市が窯業だけでなく、名古屋へ通勤するサラリーマン世帯のベッドタウンである訳です。

 現代のような車社会になる前は、この路線と名古屋市内を南北に走る堀川の水運を利用して、陶磁器を名古屋港へ集め、全国や海外へ運ばれていたようです。


駅の隣りにあるパルティ瀬戸。この辺りがせともの祭のメイン会場です。



趣のある染付磁器の陶板が町中で見られます。


陶磁器の町であることを象徴する問屋街。尾張瀬戸駅からすぐです。


 瀬戸蔵と館内にあるSETO MONO SHOP。瀬戸物ミュージアムで瀬戸物の歴史を学び、ショッピングも楽しめます。


 例年なら瀬戸蔵前にあるこの芝生の場所には、ビアガーデンが開かれ、多くのお客様で賑わっております。


 毎年行列ができる、瀬戸名物の瀬戸川饅頭。近年、藤山はこの辺りに出店させて頂いております。


 深川神社前にある、風情ある宮前地下街。ここには毎年多くの屋台が出ており、人気スポットです。瀬戸や美濃では、窯業に従事する威勢がよくてガサツな人種のことを、少し揶揄するように「窯ぐれ」と言ったりします。しかしながらどこか親しみのある言葉です。はい、他人事ではなく、藤山の当主も窯ぐれに類別されると思います。



 窯神神社へ繋がる坂道。瀬戸は坂の多い町で、土岐市の町並みによく似ております。昔の穴窯は斜面を利用して築かれました。このことが、瀬戸も美濃も坂の町となった所以でしょうね。毎年、この坂の上に臨時駐車場が設置されます。お祭りが終わった後、ほどよい疲れを感じながら、この坂道を上って帰路につきます。


 窯神神社からメイン会場付近を見下ろした景色です。


 瀬戸市の北部にある陶土・珪砂採掘場。窯神神社の横から眺めることができます。古来から瀬戸の窯業を支え続けている偉大な土地です。



 今では全国的に有名な棋士となった、藤井聡太さん。愛知県瀬戸市の出身です。街をあげて応援しております。




 昭和レトロが漂う、銀座通り商店街。大型ショッッピングモールに飽きたら、ここを訪れてみるのも新鮮かもしれません。昭和生まれの筆者は、ここに来ると何故か心が落ち着きます。全国各地でシャッター街化が進む中でも、根強く頑張っておられる商店街の皆さん。


 ここには焼き物の町ならではの陶芸教室やショップもあります。写真左は、陶芸&絵付教室 工房Marcoさん。右は、ねんど屋CONERUさん。奇遇なことに、この日の夕方(11日土曜18時30分~)に放送された東海テレビのぐっさん家で、山口智充さんがCONERUさんを訪れていらっしゃいました。自宅のオーブンレンジで焼けるという素材を使っておられるとか。恥ずかしながら、そんな素材の存在を知りませんでした。勉強不足です。


瀬戸を代表する、古民家ギャラリーのもゆさん。



 こちらは瀬戸市で最も古いアーケード街の、末広町商店街。銀座通り商店街以上に、昭和の空気を感じられます。写真右の旅館である松千代館は、全国から瀬戸物を買い付けに来た商人が利用していたそうです。今は営業していない様子でした。


 せともの祭から2週間後に、招き猫まつりが開催されます。やはり、今年は中止のようです。右の写真は、招き猫ミュージアム前に寝そべる猫です。しっかりと感染症対策をしておりました。


 ノベルティも瀬戸を代表する焼き物の一つです。ノベルティとは、陶磁器でできた人形や装飾品のことを言います。そんな専門店である、瀬戸ノベルティ倶楽部さんです。

 旅の最後に、商店街にある喫茶店のSAUSALITOさんに入って、コーヒーをオーダーしました。


 焼き物の町らしく、素晴らしい焼き物に囲まれた店内でです。このカップ&ソーサーも瀬戸焼でしょう(間違っていたらすみません)。写真の右には織部焼もあります。サイフォンを使って淹れられた至極のコーヒーでした。


 改めて、瀬戸市は歴史ある面白い街だと思った一日でした。楽しかったです。

 せともの祭は、我々出店者はもちろん、多くのお客さんが開催を待ち望んでおられることでしょう。そして、せとものには関心はないが、ビアガーデンや屋台の食べ歩きを楽しみにしておられるお客様も沢山いらっしゃるでしょう。筆者もせともの祭の後に飲むビールが、この上なく美味しいと思っております。ウィズ・コロナとしての開催になるのかも知れませんが、来年は開催できるといいですね。来年は盛大なお祭りの様子を報告させて頂きます。

磁祖・加藤民吉も開催を願っておられることでしょう。